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和妻と手妻 
明日、2012年1月1日元旦の早朝、 
NHK総合 1CH 『新春日本の”お宝”大発掘!』に出演!
出番時間は8:20~11:54のどこか。


ここでは晃太郎は「和妻師」として紹介されるようです。

ついーとでもご指摘もらいましたが、「和妻」と「手妻」ってどう違うの?ということについて、このエントリではご説明しようかと。

まず、広辞苑 第六版(最新版)において、「手妻」という言葉は出てくるが「和妻」という言葉は出てこない。これは何を意味しているかというと、「世間一般では古典奇術というのは『和妻』でなく『手妻』である。」ということです。
和妻、という言葉は奇術界以外では文学にも芸能史にも、とんと出てこない。「和妻」というのは「ゾンビボール」や「カードマニュピレーション」と同じレベルの、奇術用語です。(和妻という言葉が発生したのは明治頃と言われておりますが、河合勝先生がどれほど遡っても「和妻」をタイトルに冠する書物は昭和まで待たなければ出てこない、とのこと。実際、明治期には「和洋てじな」「和洋手品」を冠するタネ本は多く出ていますが、古典のものは手妻と表記され、まだ和妻・洋妻の呼び分けはされていません)


で、奇術界の中でその和妻がどう使われているかというと、「和風マジック全般」を指すものとなっています。西洋のマジックの技法を使い、西洋のマジックの道具を和風に装飾して、和服っぽいものを着て演じさえすれば「和妻」。この風潮を苦々しく思う方が仮にいたとしても、現実的に
・奇術界でしか「和妻」が使われていない
・「和妻」を演じる多くのマジシャンは和の芸を習得していない
・「和妻」を演じる多くのマジシャンは伝統奇術の魅力と特徴を理解していない
・「和妻」から外れたトンデモ和妻があっても誰もおかしいと声を上げない
という事実があります。

和妻は希少、和妻の継承者がほとんどいない、と言われていながら、現実に「和妻」で検索すると、それを得意演目にしているマジシャンは石を投げれば当たるほどいます。皆さん、演技のレパートリーとして、やってるんです。「こないだは洋装でやりましたが、和装でもできるんですよ。衣装が豪華でかっこいいでしょう?」と。あと大抵は傘をぽんぽんたくさん出す演技やってますが。。。あれ古典奇術としては存在していないものです。「千本傘」「江戸道中浮かれの傘」などは、さらしの中からの出現であって、傘をカバーに次々に傘を出すのは西洋のパラソルの演技の系譜です。


この「和妻」。実は文化庁から「保護を講ずべき無形文化財」として指定されています。奇術協会が昔申請して、勝ち取った功績です。しかしこれは、ちょっと頭の痛い問題で、保護を講ずべき、とうたいながら、雨後の筍のように演技演目が増え続け、どこまでが和妻なのかが誰にも決められずさっぱり枠組みがわからない。

そして、和妻をやるマジシャンは多かれど、「和妻のみを専門にやる、職業的和妻師」は壊滅的にいません。
これが和妻の実情です。


さて、晃太郎は「手妻師」という肩書きを好んで使用しています。もちろん差別化の意図があり、「我々一門がやっているのは古典の色を濃く残してやっていますよ」「洋風のマジックを一切やらず、手妻のみのエキスパートですよ」という意味でつけています………が、これは、「和妻やってるやつはニセモノwww 俺ホンモノwwww」って意味じゃないんですよ。

和妻は和妻で、とてもいいものだと思ってます。自由闊達な発想で進化させていき、観客が見て「楽しい」「不思議」というのを重視している。よさこいのようなもんです。あれを古典芸能と分類はできないかもしれないけど、特に若い層がやりたがり、躍動感と勢いがあるってのはいいことです。


しかし、日本の古典の奇術が有していた魅力の中には、今をもっても世界に例のない先進性があります。その辺を大事に残しつつ、かつ現代の方が楽しめる形でプレゼンテーションするのが、手妻師としての役割。それは、古典奇術を継承発展させている一門にしかできない仕事なのです。

例えば、僕もでっかい輪にのって廻ったりします。あれは、cirque-eloizeにて、2002年からDaniel Cyrがアクトを始めたものだから、全く古典奇術じゃない。トンデモ和妻です。ではなぜあれを取り入れたかというと、金輪の芸は「見立ての芸」であったからです。大きい輪の中で、自分自身を見立てに使う、という古典奇術の持っていた精神性を残して取り入れたのが金輪舞、という芸なのです。

「見立て」は手妻の最大の魅力です。その他、「口上の魅力」「所作仕種の魅力」「からかいの魅力」など、枚挙に暇がありません。


古典奇術を立脚しているかどうかは、自分がどんな看板を出しているかどうか、じゃないです。周囲のお客様、仲間がどんな層か、です。公演をやったときに、どのくらい和服をお召しになったお客様が見えているか。出演するゲストがマジックの仲間なのか、伝統芸の仲間なのか。借り物の和妻をやっていては、舞踊の会でのゲストなどに呼ばれることはないです。着こなし、足運びが変に思われちゃいますので。
ニセモノ・ホンモノ、という言葉は使いたくないですが、「俺が古典奇術師だ!俺が古典奇術だ!」って言う方が希少だってのは、和妻をやるマジシャンのお客様、仕事現場、仲間を見れば一目瞭然。


「和妻」の方が包括範囲が広い。手妻は和妻の中に含まれながら、より古典奇術の色合いを濃厚に残している。だから晃太郎の肩書きは「手妻師」で、屋号は「和妻関連、なんでもひと通り致します」ということで「和妻悉皆屋」とつけているのです。プロの手妻師が、和妻をやるのです。


---------------

さて和妻と手妻の話はここでおしまい。
番組を控えてますので、ちょっとだけ見立てに踏み込んだ話を。


ここ近年、「見立て」について自分の中で考察が深まってます。
西洋的な見立ての表現は直截的で断定的。日本の見立ての魅力は多義的で多様的だと言うのが、晃太郎の持論です。
これは、師匠とも異なっていることかと。

chou_left.jpg

この蝶の形。これを、西洋の考えで蝶に見立てるとすると、「色をカラフルにする」「羽を4枚にする」「触角をつける」など。より蝶を蝶にするんじゃないかな。
晃太郎は、これをしたくありません。なぜなら、この蝶の形がプリミティブであるほど、単純であるほど、「その人の中にある蝶」になるからです。

前者はイメージを強いていることになる。アゲハチョウの形にしてしまえば、アゲハチョウにしか見えず、モンシロチョウにしてしまってはモンシロチョウにしか見えない。でも、見る観客によって知っている蝶、馴染みのある蝶は多様なはず。手妻師は蝶の特徴の最大公約数、蝶に見え得る極力シンプルな形で見せる。舞台の上には、お客様の思い描いた蝶が顕れることになります。

見立ての芸ではイメージを押し付けることより、お客さまの心の中にあるものを映し出すのが肝要なのでは。

それと、一門の芸でありながら、師匠とは違うアプローチをしているのを、このブログで予習して頂きましょうw

それは、「牡丹の扇子の使い方」です。師匠と異なるのは、
・表に開いた牡丹、裏に閉じた牡丹が描かれている
・千羽蝶では、霞の扇子でなく、牡丹の扇子で扇いでいる
点です。

牡丹が閉じていれば蝶は誘われない

閉じた牡丹は死の暗示

開いた牡丹は生の暗示

そして牡丹の花の上で舞う型こそ、蝶の型


NHKでの演技時間は3分と短いけれど、魅力に触れてもらうことはできるんじゃないかな。


\面白いと思った方、ぜひ生で呼んで下さい!/

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